秀峰によるブログ

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探究は終わった!

探究は終わった!と思っちゃう人が増えてます。例えば「すべては一つの私なんです」「自分がいなくなっちゃったんです」とか「個人はいない・人はいない・誰もいない」ということに気付いた人です。

 

でもね、そうした“体験”は、ひとつの体験でしかないんです。その体験をした人が、「全人格的に何の問題もないゴールにたどり着いた」と勘違いする例も増えています。

 

仏教の悟りとか非二元の解放とか、そういう体験は、言うなれば、小学生なのに、「中学3年の理科」を習っちゃったようなもんです。

 

部分的なんですよ。仏教の悟りとか非二元の解放とかを実現させることを売り物にしたティーチャーたちがいますよね。でも、それは、小学生に、「中学3年の理科」だけ、特化して教えて、出来るようになった、というだけなんです。

 

実際は、小学生なんだから、小学生なりの教養や対人関係、ものの見方も、ちゃんと習得して、初めて「中学の3年の理科だけ」が残ってる場合に、それを習うことに意味があるんです。

 

近年、「中学の3年の理科」だけを先に体験してしまい、小中学生一般の科目がなおざなりになって、一般の人間関係で不具合を起こす人が増えています。

 

探究という意味では、「中学の3年の理科だけ」を体現すれば、探究の終わりということになるんでしょうが、実はその人には、小学校の全科目や中学の国語や社会というものが、抜け落ちていて、決して仏教でいう「無学」(これ以上、何も学ぶことがない)になれた訳でもないんです。

 

それに、「中学の3年の理科だけ」を体現した人は、一般の人を見下す傾向があります。自分は特上の境地を体現した、という思いがあるからです。

 

だから「探究は終わった!」などと自分で主張する人を信用してはなりません。なぜなら、先に述べた通り、全人格的に調和のとれた状態を人は、たぶん、いないからです。まだ「向上」の余地がある、ということなんです。