秀峰によるブログ

非二元・精神世界などの隔離ブログ(内容が独善的過ぎたり誰かをディスってるような記事)

瞑想の先には・・・

阿部敏郎さんが、やたらと瞑想を推奨するので、ちょっと嫌味なコメントをブログに書いてしまった。

阿部ちゃんを商売人と呼び、商品知識(瞑想など)に詳しいのは当然として、中には、瞑想の先に「悟り」「非二元の解放」があると信じてしまう人がいるのでは、という問いかけだ。

阿部ちゃんも、瞑想はそういった境地への「手段」ではないと、はっきり返してきた。さすがである。しかし、自ら手掛ける「商品」の宣伝をしてることには変わりない。

坐禅でも、「悟り」を目指して座ることを「待悟為則」と言って嫌う。ヨガの世界では、「解脱」を求めて瞑想をすることになってるが、それだと、60年とか、今世では足りずに来世までかかる、などと言われている。

マインドフル瞑想などが流行っているが、名だたる有名IT企業が取り入れたから有名になっただけであって、「町工場で、朝にラジオ体操をやったら生産性が上がった」というのと何ら変わりない。

そのためか、私は瞑想をしない。なにやら目的があってやる瞑想は、ちょっとイヤラシイというイメージがあるからだ。だったら、ヨガ体操をやる方がまだ実践的だと思う。

でも、坐禅はやる。坐禅をやる理由は、道元禅師が「とにかく坐れ」と言うのでやっている。目的も効果もないことは解っている。「とにかく」坐るのが動機と言えば動機だ。

だから、スティーブ・ジョブズが鈴木俊隆老師の元で参禅してたからと言って、坐禅や瞑想などを始めるとしたら、ミーハーすぎる。ビル・ゲイツだのマーク・ザッカーバーグあたりが瞑想したとしても、同じことだ。

私は要するに、昨今の、坐禅や瞑想の流行には、あまりいい印象を持ってないのである。それは、要するにミーハーなのだ。あとは何やら特定の目的の手段、という位置づけが、いやらしく思えるのだ。

 

だったら、動機も目的も

 

 

「地に足つけて」ってなんやねん

精神世界などの記事で「地に足つけて」をいう言葉を発する人がいるけど、この言葉の意味がさっぱりわからない。

例えば企業の正社員なら地に足ついているの?

職業的な問題じゃないなら、「地に足ついていない人」ってどうゆう人のこと?

何もしないでブラブラしてるのが「地に足ついていない」のなら、ラマナ・マハルシだって他の聖賢と言われる人だって、地に足ついてないよね。

つまりは、一般世間と妥協して、適当にやってる人が「地に足ついている」ってな話になるのか。

スピリチュアルにのめり込んで、セミナーやセッションやらに奔走している人は、みんな「地に足ついてない」人なのか。

そもそも、スピリチュアルや精神世界に足を突っ込んでいる時点で「地に足ついてない」と世間では言われるだろう。でも、その同じ範疇の人同士で「地に足ついている」「ついていない」などと他人を裁く必要がどこにあるのか。

精神世界や宗教に没頭する種の人々は、世間の社会通念と違う価値観や世界観をもっているのだから、そもそも「地に足がついていない」世界の住人だろう。それが悪いことだとは決して思えない。

それを、「あのティーチャーは地に足がついてる」とか、「あの人を心棒しているようじゃ、地に足がついていない」などと判別するのは、まるで内紛劇のような気がする。

結局、何を言いたいと言えば「地に足つけて」という言葉が、スピリチュアルや精神世界の中で使用されるのが、ものすごい違和感があるのだ。

だいたい、本質なことを言えば、誰だって地に足つけて生きているではないか。それを職業や地位・ライフスタイルなどで分別する精神が気に喰わない。

そうでない人を想定して、自分たちは「しっかりしている」というお墨付きを、この「地に足つけて」という言葉が象徴している。これが非常に卑怯なやり方に思えるのだ。

分離はそんなに悪いこと?

非二元のメッセージを読んでると、やたらに「分離」という言葉が出てきます。それは悪い意味で出てきます。「ワンネス=善、分離=悪」というステレオタイプが見て取れるのがどうも納得いかん。

 

わざわざ分離の世界に生まれておいて、分離はよくないから統合を目指さないといけない、みたいな言説が目立つんだよね。そのへんの仕組みが分からない。

 

分離とか、相対世界とかも、それなりに存在意義があるからあると思うんだよ。だから、非二元ティーチャーたちが、ワンネス的な一瞥体験をさせますよ、などを謳い文句にして営業しているのを見ると、分離の世界にいたって、結局それは、最初から分離のない世界にいるワケだから、同じことじゃん、と思うワケだ。

 

へ理屈を言うと、分離の世界と分離のない世界と、結局、2極的な対比を認めているわけだから、はじめから、どっちでもない、これは何かの修練やメソッドを実行した結果に獲得する話じゃなくて、最初から分離のない世界にもある世界にも、どっちにいてもいい、というか、そんな区別は要らないという気がする。

 

悟ってるとか、まだ悟ってないとか、解放されてるとか、まだ解放されてない、とかも同様で、どっちでもいいし、皆、どっちにも居ると思う。つまり、境界線はない、と言えると思うんだよね。

それが、一瞥体験・ワンネス体験などというエポック・メイキングな言葉があるもんだから、それに捕らわれてしまって、自分をバージョンアップするようなノリで、そういった特殊な神秘体験を早く実現しなければ・・・なんて人が、悟りビジネスのいい顧客になる。

 

単に、何もしなければいいだけの話なんですよ。別に「私がいなく」なったり「すべてが私」だと思える体験は、実質的にはなんの役にも立たない。ただ妙な優越感を抱く根拠にもなり得る。分離は分離で、何か悪い!と言いたいんだよね。

 

探究は終わった!

探究は終わった!と思っちゃう人が増えてます。例えば「すべては一つの私なんです」「自分がいなくなっちゃったんです」とか「個人はいない・人はいない・誰もいない」ということに気付いた人です。

 

でもね、そうした“体験”は、ひとつの体験でしかないんです。その体験をした人が、「全人格的に何の問題もないゴールにたどり着いた」と勘違いする例も増えています。

 

仏教の悟りとか非二元の解放とか、そういう体験は、言うなれば、小学生なのに、「中学3年の理科」を習っちゃったようなもんです。

 

部分的なんですよ。仏教の悟りとか非二元の解放とかを実現させることを売り物にしたティーチャーたちがいますよね。でも、それは、小学生に、「中学3年の理科」だけ、特化して教えて、出来るようになった、というだけなんです。

 

実際は、小学生なんだから、小学生なりの教養や対人関係、ものの見方も、ちゃんと習得して、初めて「中学の3年の理科だけ」が残ってる場合に、それを習うことに意味があるんです。

 

近年、「中学の3年の理科」だけを先に体験してしまい、小中学生一般の科目がなおざなりになって、一般の人間関係で不具合を起こす人が増えています。

 

探究という意味では、「中学の3年の理科だけ」を体現すれば、探究の終わりということになるんでしょうが、実はその人には、小学校の全科目や中学の国語や社会というものが、抜け落ちていて、決して仏教でいう「無学」(これ以上、何も学ぶことがない)になれた訳でもないんです。

 

それに、「中学の3年の理科だけ」を体現した人は、一般の人を見下す傾向があります。自分は特上の境地を体現した、という思いがあるからです。

 

だから「探究は終わった!」などと自分で主張する人を信用してはなりません。なぜなら、先に述べた通り、全人格的に調和のとれた状態を人は、たぶん、いないからです。まだ「向上」の余地がある、ということなんです。

 

爆発はどうなんだろう

ニサルガダッタ・マハラジが著書の中で、「爆発」を期待してはならないと説いています。爆発とは、一瞥とかワンネス体験とか、要は特別な、飛躍的な神秘体験的に「わかっちゃうこと」です。

 

これが起こるとね、多くの人は、「ついに私は到達したぞ、この最後のゴールを獲得したぞ」と思ってしまうんです。そこが問題でね、皆が私に見えたり、逆に、私もいないし誰かもいない、そもそも人はいない、なんて認識を持って、それが探究の唯一の答えだと思ってしまうわけです。

 

すると、この手の話になると、「あ、それはストーリー」「あ、それもストーリー」で片づけてしまい、一般人とのやりとりが、チグハグになりがちなんです。でも、そのストーリーの認識の中には、まだ上があるというか、向上の余地があるんです。

 

だから、「爆発」をせずに、だんだんと、いろんな立場の人の気持ちを汲んだり、選ぶ言葉を選んだり、そういった地味な探究をしてこないで、いきなり「爆発」が起こると、まあ傲慢というか、自尊心が強まるという、人間性を含んだ総合的なところで何かオカシナ状況になりがちです。

 

私がいなくなっちゃった人は、勝義諦と世俗諦(ググって調べて下さい)をうまいこと使い分けて、未爆発の人とも流れるように対話するスキルを身につけて下さい。それができてる代表格が、大和田菜穂さんだと思います。

自我は悪者?

よく悟り系のメッセージに「悟りたいという欲望も自我の働き」とか言って、自我はとことん悪者にされてます。それは当たり前で、「自我」という言葉自体が、悪者的な使い方を前提としているからです。

 

なので、自我を、「生存本能」などと言い換えれば、言葉の悪者性は、たぶんなくなるでしょう。

 

インド哲学的に「アートマン」とか言っても悪者性はなくなりますが、自我とアートマンは別物だよ、という解釈もあるでしょう。

 

アートマンの存在を否定したと言われる仏教においても「自己」という言葉は肯定的な文脈で何度も出てきます。

 

アートマンだって、「自己の本質」を個別的な意味合いから表現した言葉だと思うし、「自己の本質」そのものは、一つの言葉では表現できず、苦し紛れに「それ」とか言われるものなのでしょう。

 

結局、非二元の決まり文句「私はいない」も、「私の本質は、この身体ではない」という風に単純に解釈してもいい。

 

または、本質の私は、何の所有者でもない、何の行為者でもない、何の責任者でもない、つまり、通常いわれる私はいない、なんて考えると解りやすいと思う。